“社会不適合者”と呼ばれた若者たちと挑んだ、清田英輝の経営戦略

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清田英輝氏インタビュー記事(第1弾・完全版)

「やりたいことができてる」——それだけで、十分だった

福祉への夢と、現実との折り合い

清田英輝氏の原点は、幼い頃の家庭環境にある。母子家庭に育ち、祖父母に支えられた日々の中で、自然と「いつかおじいちゃんおばあちゃんのためになることがしたい」という思いが芽生えていた。漠然とした憧れではなく、自分を育ててくれた人への具体的な恩返しとして、福祉の世界を志していた。老いていく祖父母の姿を見ながら、「この人たちのために何かできる仕事をしたい」という気持ちは、年を重ねるごとに確かなものになっていった。

しかし、理想と現実の間には厚い壁があった。福祉施設を立ち上げるにも、ボランティア活動を継続するにも、土台となる資金が必要だ。想いがあるだけでは動かせない世界がある。施設を持つための初期費用、人を雇うための運転資金、事業を維持するための継続的なキャッシュフロー——どれひとつとっても、まとまったお金なしには前へ進めない。「お金がないと、何もできない」——その現実を直視したとき、清田英輝氏は感傷に浸ることなく、冷静に次の一手を考えた。

自分が誰よりも得意としていたもの、それは営業だった。声ひとつで相手の心を動かし、信頼を積み上げていく。その力を使って、まず会社にお金を貯める。そしてそこから、本当にやりたかった福祉へとつなげていく。「社会貢献の前に、まず自分が立てる場所を作る」——遠回りに見えるかもしれないその判断が、清田英輝氏にとっては最も誠実で、最も現実的な答えだった。夢に向かうための、地に足のついた第一歩だった。

間借りのオフィスから始まった挑戦

最初の一歩は、決して華やかなものではなかった。元上司の会社の一角を間借りし、数名の仲間とともに立ち上げたのは、インターネット回線の切り替えを提案するテレマーケティング事業だった。会社の登記こそ済ませたものの、自前の事務所はない。他の会社の人たちが忙しく働くオフィスの片隅に、4席ほどのスペースをもらい、そこで自分たちだけの朝礼を開き、自分たちだけの営業に出かける日々だった。

起業したての頃というのは、マンションの一室すら借りられるかどうかわからないことも珍しくない。そんな中で元上司がオフィスの場所を提供してくれたことは、清田英輝氏にとって何物にも代えがたい支えだった。縁があったからこそ、スタートを切ることができた。人とのつながりの大切さを、清田英輝氏は創業期の記憶とともに今も深く胸に刻んでいる。感謝の念は、時間が経っても薄れることがない。

傍から見れば、みすぼらしい出発かもしれない。でも清田英輝氏の記憶の中に、苦しさはさほど残っていない。「今思えば大変でしたけど、その当時は楽しかったんですよね。やりたいことができてるし」——その実感が、どんな不安や不便よりも強かった。自前の看板も、立派なデスクも、整ったオフィス環境もない。あるのは電話と、仲間たちの熱量と、自分たちへの根拠なき自信だけ。それでも清田英輝氏の気持ちは、ずっと前を向いていた。

事業を安定させるため、テレマーケティングと並行して携帯電話のイベント販売も業務委託という形で同時進行させた。「一本だと怖い」という現実的な判断で、通信業を軸に二本の柱を立てる。リスクを分散しながら、しかし確実に、足場を固めていった。

転機は、商業施設の片隅で訪れた

25歳から26歳にかけての頃、縁あってある商業施設での携帯電話販売に踏み出すことになった。それまでの業務委託という形ではなく、1台契約いくらという直接形式での参入だった。知人から「商業施設でちょっとやってみないか」という話がひょっこり舞い込んできたのがきっかけだった。深く考えるより先に、やってみようと動いた。

おそるおそる入ってみたその商圏が、今思えば飛び抜けて良い場所だった。現在もそこがグループ全体の収益を支える重要な拠点になっているほどだ。当時の判断が、どれほど大きな意味を持っていたか。時間が経ってから、じわじわと実感することになる。

売上が伸びるにつれ、清田英輝氏は自らテレマーケティングの現場を離れ、携帯電話販売の最前線に立つようになった。「そっちの方が売上が伸びるだろう」という手応えを感じ、自ら現場に飛び込んでいった。1〜2年ほどで、事業の軸は完全に携帯へとシフトしていく。テレマーケティングだけの時期は月商3000万円ほどだったが、携帯販売を本格化させてからは売上が一気に跳ね上がっていった。数字が、判断の正しさを証明した。

この成功の背景には、テレマーケティングで磨き抜いた「声だけで信頼を勝ち取る」技術があった。顔も表情も見えない相手に、言葉だけで心を開いてもらう。テレアポというのは、対面のプレッシャーはない代わりに、声だけでコミュニケーションを成立させ、声だけで相手の懐に入り込むトークが求められる。沈黙も、表情も使えない。使えるのは声の抑揚と、言葉の選び方と、間の取り方だけだ。20代前半のほぼすべてをその訓練に費やしてきたからこそ、いざ対面の場に立ったとき、笑顔や雰囲気、豊かなコミュニケーションという武器をそのまま上乗せできた。

「相手が見えない声だけで契約を取れるなら、笑顔を見せられる対面は余裕でしょう」——その自信は、根拠のある自信だった。長い下積みがあったから、結果が出た。清田英輝氏はそう確信していた。

さらに、自分たちのスタイルは来店客を待って案内するだけの携帯ショップとは根本的に違った。買い物に来たお客さんに自ら声をかけ、主体的に営業をしかける。それが自分たちの会社の強みであり、アイデンティティだという自負があった。チームへの教育にも力を注ぎ、営業力を組織全体に浸透させていった。その姿勢と熱量が現場で確かな差を生み、「こっちの店舗でもやってくれ」「あっちでもお願いしたい」と声がかかり始め、店舗は全国へと広がっていった。

組織の形も変わっていった。最初は友人・知人を採用していたメンバーが、中途採用へとシフトし、会社としての体裁を整えていく。売上規模も人員規模も、着実に拡大していった。そして、起業の出発点にあった夢——福祉事業への扉も、少しずつ開き始めた。通信事業で積み上げてきた力と資金が、ついに本来の目標へとつながる道を照らし始めた瞬間だった。

「ちゃんとした人は、あんまりいなかった」

拡大する組織に集まって来たのは、どんな人材だったか。清田英輝氏は、笑いながら正直に話す。 「朝起きれませんとか、お酒飲んだら暴れちゃうとか、正直多くいました。僕も含めて」

世間的には「社会不適合者」と見られかねない若者たち。履歴書だけを見れば、採用の段階で弾かれてしまうような人材ばかりだったかもしれない。でも清田英輝氏は、それを問題とは思わなかった。なぜなら、自分自身も14歳で挫折を経験し、そこから営業という武器を手に這い上がってきた人間だったからだ。レールを外れた若者の痛みや焦りが、誰よりもリアルにわかった。だからこそ、問題児扱いするのではなく、環境と教育で可能性を引き出すことに徹した。

「環境があれば、人は変われる」——その言葉を体現するような出来事がある。かつて清田英輝氏の前で「絶対に正社員にはならない」と堂々と宣言していたアルバイトの青年がいた。言い方は反抗的だったが、清田英輝氏は「そうですか」と受け流しながら、その青年を見続けた。怒るでも、説得するでもなく、ただ機会を与え続けた。10年後、その青年は正社員となり、やがて携帯事業のトップとして会社全体を引っ張る役員にまで成長していた。人は変わる。環境さえ整えれば。

自分にレッテルを貼ってしまう若者は、今の時代とりわけ多い。「大学に行けなかったから正社員になれない」「転職に一度失敗したからもうダメだ」——そうやって自分で自分の可能性を狭めてしまう。SNSが普及した今では、外からも容赦なく言葉が飛んでくる。目立てば目立つほど、批判も増える。YouTuberだろうが起業家だろうが、それは変わらない。そういった言葉に晒されながら、「自分にはやっぱり無理だ」思い込んでしまう若者が後を絶たない。

でも、変えられるのは環境と考え方だ。清田英輝氏はそう信じ続けた。そして自分自身も、常にモチベーションを上げながら、メンバーと「一緒に育っていく」感覚で向き合ってきた。指導する側と指導される側という上下の関係ではなく、同じ方向を向いて走る仲間として。社会的なハンディを抱えた若者が、営業という舞台で自信ややる気を少しずつ取り戻し、見違えるように成長していく。その姿こそが、清田英輝氏にとっての最大の報酬だった。

「昭和の会社に勝ちたい」——反骨心が、チームを束ねた

初期のチームを動かしていたのは、シンプルな感情だった。「昭和の会社に、俺たちは勝てる」——難しい理念も、洗練された戦略も要らない。その一点で、みんながつながっていた。体裁の整った大きな組織に、寄せ集めの若者たちが真正面からぶつかっていく。その構図そのものが、チームの士気を高めた。負けん気というのは、ときに経験やスキルを超える力を持つ。

清田英輝氏自身は、もともと営業が好きだった。同世代の友人と比べても際立って珍しいタイプだったと、今でも苦笑いしながら振り返る。しかし集まってきたメンバーの多くは、営業が得意でも好きでもなかった。それでも「勝ちたい」という反骨心だけは共有できた。楽しくやれていたからこそ、その熱量はお客さんにもそのまま伝わった。気持ちというのは、言葉にしなくても人に届く。

清田英輝氏自身が毎日現場の先頭に立ち、「おれの背中を見ろ、行くぞ」と旗を振り続けた。経営者というよりも、誰よりも前のめりな一営業マンとして動き続けた。夜は飲み会でチームと時間を共にし、昼は誰よりも声を張り上げた。指示を出す人間ではなく、一緒に走る人間であり続けることが、清田英輝氏にとっての経営スタイルだった。少なくとも、最初の5年間は。

14歳で挫折を経験し、営業で這い上がってきた人間が、同じように傷を持つ仲間たちと組んで、既存の秩序に真正面からぶつかっていった。その5年間で、会社は目を見張る速さで成長した。夢だった福祉事業への道も開け始め、すべてが順調に見えた。

しかし、急成長の先には、また新たな壁が待ち構えていた——。

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