営業の天才が初めてつまずいた日|清田英輝の経営転換期

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高齢者介護から、子どもたちの笑顔へ

起業当初から、福祉事業はずっと心の中にあった。ただ、最初に思い描いていたのは高齢者介護だった。祖父母に育ててもらった経験から、「福祉といえばおじいちゃんおばあちゃんのため」というイメージが自然と根付いていた。

それが変わったのは、ある知人の一言がきっかけだった。 「子どもの福祉、知ってる?」

放課後等デイサービスと呼ばれる施設のことだった。多動症、自閉症、ダウン症など、軽度の障害を持つ子どもたちを放課後に預かる場所だ。それまで存在すら知らなかった清田英輝氏は、まず見学に足を運んだ。

そこで目にしたのは、子どもたちの姿だけではなかった。お子さんを預けた保護者が、ほっと息をついて見せた笑顔だった。ハンディのある我が子を育てる日々は、想像をはるかに超える緊張と疲労の連続だ。そんな保護者が、束の間の休息——いわゆるレスパイトケア——によって、肩の力を抜ける瞬間がある。子どもを支えることは、その家族全体を支えることだ。その光景を見たとき、清田英輝氏の中で何かが決まった。「これをやりたい」と、直感が告げた。

1店舗目の手応え、そして壁

参入してみると、事業モデルとしての手応えは十分だった。子どもと家族の力になれる。自治体からの補助金もある。清田英輝氏自身も現場に入り、スタッフとともに施設を動かした。1店舗目は収益面でも安定し、「これは良いモデルだ」という確信を深めた。

しかし、壁はすぐに現れた。2店舗目をどう出すか。どう拡大していくか。そこで清田英輝氏は、自分の中の大きな空白に気づいてしまう。

これまでの人生で磨いてきたのは、営業力だった。「売ればいくら入ってくる世界」で生きてきた。がむしゃらに走ってきたからこそ結果は出せたが、資金調達、M&A、株式の取得——そういった「金融の言語」は、ほとんど知らなかった。借り入れという言葉の意味すら、ぼんやりとしか掴めていなかった。営業一本で駆け抜けてきたツケが、成長の踊り場でじわりと顔を出した。

29歳、経営の「言語」を学び始める

転機は、年上の経営者たちとの出会いだった。様々な縁が重なり、借り入れの仕方、M&Aの手法、株式取得の考え方——これまで縁のなかった世界を、29歳にして一から学び始めた。「なんだその言葉は」という状態からのスタートだった。

知識が足りないなら、知識を持つ人間を連れてくればいい。清田英輝氏はそう考え、自社のビジョンに共感し「一緒にやる」と言って前職を辞めてきてくれた専門家たちを迎え入れた。彼らの知見を借りながら、資金調達とM&Aを本格化させていく。

結果は劇的だった。人材派遣会社の取得、経営難に陥った会社の買収と再生——自社の販売力を軸に、次々と手を打っていった。携帯販売だけでは6〜7億円だった売上が、一気に30億円を超えた。福祉事業も並行して拡大し、起業当初の夢は、着実に形になっていった。

外部人材の登用がもたらした、静かな摩擦

しかし、組織の中では静かな摩擦が生まれていた。 長年ともに戦ってきた仲間たちにとって、外部からやってきた専門家が上位ポジションに座ることは、素直には受け入れにくかった。自分たちで盛り上げてきた場所に、いきなり「格上」として外の人間が入ってくる。拒否反応が出るのは、むしろ自然なことだった。清田英輝氏自身も、最初は抵抗を感じていた。それでも成長のためだと言い聞かせ、変化を推し進めた。

問題は、組織の外ではなく、清田英輝氏自身の内側で起きていた。

「社長」を演じ始めた日

規模が大きくなるにつれ、「社長とはこうあるべきだ」という像が、じわじわと清田英輝氏を縛り始めた。

現場の先頭に立ち、熱量で引っ張る——かつての清田英輝氏は、どこからどう見ても「営業部長」だった。誰よりも声を張り、誰よりも前のめりで走る。それが自分のスタイルだと信じて疑わなかった。しかし外部の専門家が入り、組織が大きくなるにつれ、その自分が少しずつ遠ざかっていった。

代わりに現れたのは、周囲に気を遣い、自分らしさを押し込めて「社長」を演じる自分だった。自分の会社なのに、なぜかみんなに気を使う。情熱で動くのではなく、「社長だからこうすべき」という型に自分を合わせようとする。気づかないうちに、本来の自分ではない何者かを演じていた。しかも、そのことに本人はまったく気づいていなかった。

他責思考も増えた。うまくいかないことがあると、誰かのせいにしたくなる。外部の専門家がいるから大丈夫、任せているから問題ない——「社長は任せるのが仕事だ」という言葉を、都合よく解釈するようになっていた。「社長は孤独なものだ」と自分に言い聞かせることで、周囲の声がだんだん届かなくなっていった。

従業員も、家族も、「変わってしまった」と薄々感じていたかもしれない。でも社長に向かって「おかしくなってますよ」とは、なかなか言えない。「騙されてますよ」「利用されてますよ」とも言えない。気づけば、完全な「裸の王様」状態になっていた。当時の清田英輝氏は、そのことにまったく気づいていなかった。

慢心という名の落とし穴

資金調達がうまくいき始めると、感覚が少しずつ狂い始めた。時代の追い風もあり、お金が集まりやすい状況が重なった。「うまくできちゃった」という成功体験が、歯止めをゆるめた。

会社を買う。売上を伸ばす。従業員にたくさん給料を払う。夜の出費も増える。それらすべてを「投資」という言葉でくるんで正当化するようになった。どこかで「大丈夫かな」と感じる自分もいた。でも「いや、社長とはこういうものだ」と打ち消し、すでに使ってしまったお金があるから引けない、という状態が続いた。30代前半という若さで、歯止めが効かなくなっていた。

外部から招いた専門家たちは「盛り上げよう」「支えるよ」と言ってくれた。その言葉を信じ、期待し、「裏切らないだろう」と疑わなかった。売上という数字だけは、確かに伸び続けていた。

目標は高かった。売上100億円、従業員1000人、そして上場——24歳で起業したときから変わらない夢を、清田英輝氏は今も持ち続けている。エネルギーそのものは、変わっていなかった。ただ、そこへ向かうやり方の中に、さまざまな誘惑と歪みが静かに忍び込んでいた。

30億円を超え、上場を視野に入れ始めたそのとき——清田英輝氏と会社に、ある出来事が待ち受けていた。

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